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秦中 様

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 3月14日(土)00時05分25秒
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  1、琉球人は船が下手で、針路をわからないで、明皇帝は特に福建人に36姓をいただいて、便利さの琉球国と中国は交流します。
2、琉球人の船は“山原の船”と称されて、遠距離航海の釣魚諸嶼の能力を備えないで、その上琉球国造は大規模の帆船を出ないで、だから中国に船をいただくように願い出て、また福建の布政司を配置して船を修理することを助けてもらいます。
3、册封使船の水先案内人は琉球人、彼らの中の多くの人は36姓で、36姓の琉球人ではありませんて、彼らの地理の知識も36姓から来て、また、琉球から東南アジアのタイまでの針路、ただ中国の記録は琉球は記録していません。陳侃「使琉球録」(一五三四年)は、尖閣列島の島々を最も古く記載した文献として重要であるが、「使琉球録」巻一は次のようにのべている。

と書かれていますが、少々無理が大きすぎるようです。
次の文章を読まれて下さい。


 「十一月新進貢船至ル。予等之ヲ聞キ喜ブ。?人海道方ヲ諳ゼズ(よく知らない)切ニ之ヲ優フ。其ノ来リテ其ノ詳ヲ詢ジ(相談する)得ルコトヲ嘉ブ。翌日又報ズ。琉球国船至ル。乃チ世子(冊封を受ける琉球王位継承者)長史蔡美ヲ遺シテ来?ス(迎えにきた)。予等則チ又其ヲ喜ブ。諸貢社(最初に福州へ至った進貢船の人々)に詢ズル(相談する)コトナキヲ。(略)

 世子亦?人舟ヲ善ク操セザルコトヲ慮シ(憂慮し)、看針通事(針路士兼通訳)壱員ヲ遺シ遺シ夷梢(即チ)舟ヲ善ク駕スル(扱いうる)者三十人ヲ率ヒ、代リテ(?人に代って)之ノ役ヲ為ス。即チ又其ヲ喜ブ。前駆(先導の舟)ノ助ケヲ借リラザルコトヲ。而シテ同舟(同行の舟で琉球の迎接船のこと)有リ共ニ済ル者矣」

 陳侃使録は井上氏の主張とまったく反対に、中国人の方が尖閣列島の航路に十分な経験のなかったことを認めている。そうしてこのことは別段不思議ではない。なぜならば、この航路を中国人が利用するには、琉球へ赴く場合か、さらにこれに続く南路(琉球−薩摩)を用いて日本へいたるとに以外に考えられないからである。

 ところが尖閣列島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』(桴海図経・巻一、一五五六年)の中でこれをあきらかにしている(『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程について知識を有する者のいたことを誌している。鄭舜功自身も日本へ渡るにあたって海上知識の大部分を寧波などに居住する日本人多数からえたとのべている)。

 次に琉球への往来であるが、洪武五年(一三七二年)中国。(明朝)は行人楊載を琉球へ派遣した。これより一八六八年までの四百九十六年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。

 中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的なかたちで両国が相互に交通をおこなっていたということはなかったようである。他方冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計二十三回であった。(ただし最初の楊載は冊封使でなかったが、この数字の中に含めている。)そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。

 冊封船の二十三回という数字は約五百年間における総数である。これを平均すると二十一・五年に一回の割合となる。しかもこの平均はいわば算術的な平均であって、実際には三十年あるいは四十年といった空白期間のあった例も数多くみられた(張学礼・林鴻年各三十年、徐葆光・周煌各三十七年、李鼎元四十年など)。陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に五十五年の空白があった。これでは?人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度ということとなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちうるはずがなかった。航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた当然であった。

 それでは陳侃は何故琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述したのであろうか。これは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数であった。すなわち陳侃までに琉球船は二百八十一回中国へ赴いていた。これに安南・シャムなどとの交易船(勘合符船)が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる(これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない)。これが現存する記録からだけでも、九十八回に達している。かくして、陳侃以前に少なくとも合計三百三十二回、琉球船が中国の福州あるいは南洋諸地域からの帰途、尖閣列島を経由していたと想定しうるのである。
(「動かぬ尖閣列島の日本領有権」より)



他方琉球も、十四世紀の初めには、季節風を実際に利用するにいたっていた。すなわち洪武五年(一三七二年)琉球が中国との進貢・冊封の関係を開いた最初の頃から、琉球の進貢船載貨に胡椒、蘇木、乳香といった南洋産物資が少なからず含まれていたばかりでなく、それ以前の元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。
(「明代および清代における尖閣列島の法的地位」より)

これらの琉球の船は全て貴国から来た人間が操船していたのでしょうか。台湾のことを小琉球と言い琉球国を大琉球と言い、当時の地図を見ても解るように台湾の地理的大きさすら把握していなかった貴国がそれほど優れた操船技術を知らなかったのがいって



結局秦中様も、何が何でも支那が上であるという考えは捨てられないようですね。とても残念です。かつて西洋が有色人種も白人と同様に文明を有するのだと気が付いたのは、貴国に触れてからではなく、日本という未開の国の清潔と道義心と公正さと勇気と犠牲心・忠誠心を目の前で見てからです。そのことは私が書いているのではなく、欧米の人間が明治の日本を見て書いていることです。貴国はかつての支那に戻ってしまってはいませんか。
 
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