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「支那人」 様

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 3月22日(日)17時05分29秒
  通報 返信・引用 編集済
  コメント有り難うございます。
その様に考えていただくと私達日本人も心を落ち着けて、我が国税府に対し「支那(=中国)政府に対し、日本がガス田を開発するなら軍艦を投入するなどと脅すような発言はなすべきではない」と毅然として忠告するように批判できます。そして、その上で「先ず中間線を明確に定め、共同開発の区域を定めるか、或いはそれぞれの自国開発と成すか、両方を同時に運用するかを定める」ように提案できます。

中間線も認めない。日本が中間線より日本側のガス田を開発しようとしたら武力で阻止すると発言するという態度は明らかに日本国民に支那(=中国)に対する疑いは発生させました。そしてそれは今後数十年続く払拭しがたい嫌悪感と不信感になりそうです。本当の日支友好を計るために支那(=中国)は普通の近代国家に脱皮してもらいたいと期待しています。と申しましても反日を国是とする中華人民民主主義共和国政府に期待するのは無理だと思っています。どうしても心ある支那国(=中国)国民の誕生に期待するものであります。


  状況は違いますが、かつて小笠原にはイギリスとアメリカが領有権を主張し入植者を送り込みました。それぞれ自分たちが発見したと考えていたからです。


1543年 スペイン船が西太平洋を公開中、小笠原諸島と思われる無人島群を遠望した
1593年 小笠原貞頼が小笠原諸島を発見し、上陸して目標を立て、物産を持ち帰ったと伝えられる
1639年 オランダ船(タスマン船長)が小笠原諸島と思われる無人島を発見する
1643年 オランダのド=フリースが小笠原と思われる無人島を発見する
1670年 阿波海部郡浅川浦の船主勘左衛門・船頭安兵衛らが2月に小笠原に漂着し、11月に下田へ帰って奉行所へ届ける(冥福の碑あり)
1675年 幕府が建造した唐船で、島谷市左衛門らに命じて小笠原を探索させる。4月下田発、日本領ヲ宣言して6月に帰港する。
1685年 備前唐津の船が小笠原と思われる無人島に漂着した?
1690年 越前三国の船が漂着し、唐津の漂流民5名を収容して6月に帰国する?
1697年 日向志布志の船が漂着し、翌年2月に帰国?
1717年 遠江引佐・新居の船が無人島に漂着し、9名が死亡、3名は21年後に帰国する?
1738年 江戸の船が漂着し、21年前の漂流民を収容して5月に帰国する?
1774年 八丈島島吏服部源六ら、幕命により小笠原の巡航に出航するが果たせず
1785年 土佐赤岡浦の船が漂着する?
1789年 博物学者の田村元長に小笠原探検の幕命が出たが実現せず
1790年 日向志布志の船が漂着、7月に帰国?
1824年 イギリスの捕鯨船が母島に寄港して、沖港をコッフィン港と命名する
1827年 イギリスの軍艦が父島に寄港して、父島をビールアイランドと命名する
1830年 アメリカ人ナサニエル・セーボレーら、欧米人とハワイ先住移民が父島の奥村に定住する。 大根山の墓地には墓碑が現存する
1835年 父島のジョン・ブラボーら7名が母島に移住する
1840年 陸奥気仙郡・小友浦の船頭三之丞ら6名が小笠原に漂着、3月に帰国し欧米人らが居住していることを報告する
1841年 ジョン万次郎らが鳥島に漂着する
1845年 阿波の船・銚子の船が漂着し、アメリカ捕鯨船コンハッタン号に救助されて浦賀に帰る
1850年 海賊船が小笠原を襲う
1853年 ペリーはサスケハンナ号に乗り、サラトガ号を従えて浦賀に向かう前の5月に琉球から小笠原に来航、セーボレー氏と交渉して石炭貯蔵地などを購入する。7月にロシア艦隊が父島に来航する
1861年 幕府が小笠原の開拓を命じ、咸臨丸を派遣する。12月19日に二見港着、住民に日本領であることを宣す
1862年 1月24日、小笠原全島取締規則・港規則を説明。島民は日本に従うことを了承する。8月朝陽丸が再入港し、八丈島から移民38名が到着する
1863年 ジョン万次郎が幕府の許可を得て、小笠原近海で捕鯨を行う。幕府は小笠原の開拓を中断し、日本人の移民・役人を引き揚げさせる
1869年 宮本守成が小笠原開拓を建議する
1870年 谷暘卿が小笠原開拓移民を申請する
1872年 谷暘卿 が井口直助に小笠原を調査させる
1873年 ロンドン紙、ピースなる人物が小笠原のアメリカ領を主張と報道。アメリカ政府は否定。イギリスが小笠原の所属を日本に質問する。
1874年 小笠原開拓4省合議案成る
1875年 イギリスがたびたび日本に対して小笠原開拓の見解を質す。政府は小笠原開拓に着手、田辺、小花氏らを派遣.先住移民は日本への帰属を了承  当時の民家の写真
1876年 内務省小笠原島出張所仮庁舎を扇浦に設置す、この年の日本人移民37名
1877年 内務省出張所新庁舎が設立される。開拓小笠原の碑が建立される。年3回の定期航路が開かれる
1878年 扇浦の仮校舎で学校教育が開始される。警察、勧農局出張所が設置される
1879年 折田家総括録によると、折田家一族が7月に父島に来航、9月に母島で開拓を開始する。当時母島には7〜8名の欧米系の人と2名の日本人が居住していたという。

色んな国が小笠原諸島を発見しています。また命名もしています。イギリスやアメリカは入植者を送り開発していますし、植民領有の意志を示しております。併し最終的にはイギリスもアメリカも日本領土として承認します。それは日本には十分に領有権を主張するだけの意志と根拠を認めた結果だったと思います。
それは「1675年 幕府が建造した唐船で、島谷市左衛門らに命じて小笠原を探索させる。4月下田発、日本領を宣言して6月に帰港する。」や「1861年幕府によって日本領とし、役所を配置し、八丈島からの移民によって開拓が行われた」という事実であったろうと思います。例えそれがが、僅か3年にして中止されたものであったとしても国際法はこれを認めたのです。

併しここに至る経緯は危ういものです。1873年イギリス公使パークスは「小笠原を今後放棄する状態に置くならイギリス領にしよう」とする意図で、その所属を問うているのです。それで慌てて明治政府は日本領を宣言。他国も異議を申し立てなかったため、1876年小笠原の日本領としての主権が世界に認められたのです。

ですから、日本政府の腰抜け外交、事勿れ外交が支那(=中国)をして色気を出させているといって過言でありません。日本は油断し過です。日本政府は間違っています。私達日本国民は先ず日本政府に怒るべきです。政府に石を投げて「何をやっているんだ!腹を決めて行動せい!」と促したいと思います。
 
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