|
|
こがたつしろう
古賀辰四郎
燕尾服と安全カミソリとピストルと無人島と藍綬褒章と−いかにも妙なとりあわせであるが、古賀辰四郎の象徴となるものをすなおにならべてみたのである。
一八五六(安政三)年福岡県八女郡に生まれ、沖縄に来て、無人島探検を多くし、尖閣列島を発見、多くの水産業をおこし、はじめて分密糖を作り、真珠養殖をはじめるなど、殖産興業に功あり、一九〇九(明治四二)年藍綬褒章をおくられ、一九一八(大正七)年病没。六三歳。嗣子善次。
福岡県から那覇へきたのが一八七九 (明治一二)年四月。寄留商人としては早いはうである。生家が茶を栽培、製造している中農で、茶を売りにきたというのであるが「琉球」に目星をつけたいわれは何であったろうか。それはともかく、
この四月四日に廃藩置県で「琉球」は大動乱のまっただなかであったのに、そこに住みつく気になったところに古賀辰四郎の真骨頂があるようである。このとき二四歳。のちに一八九七(明治三〇)年ごろ、台湾へ単身旅行をしており、日清戦争のあとのこととて用心のためにピストルを携行したが、一発も撃たなかったと、ひとに自慢した。この旅行の目的が何であったか、わからない。やはり探検がおもだったのであろう。琉球行きも、商売というより最初の探検のつもりだったとおもわれる。とにかく、ひとのやらないことを試みる志が高かった。
来た当時、夜光貝の殻がたくさん捨ててあるのをみて、その見本を神戸に送ったところ、貝ボタンの原料になるということがわかり、その輸出業をはじめる。茶の商売がおそらく邪魔っ気だったのではないか。ただ、しばらくは食うために仕方がなかった。それでも夜光貝は年々一八〜二四万キロ(三〇〜四〇万斤)を移出し三年後には八重山に支店をおいた。「那覇の寄留商人」というのは、そろそろふえてくる時期であったが、「八重山の寄留商人」というのは、めずらしい。置県後、いわゆる頑固党の清国への嘆願使節が、八重山あたりで秘密裏ににぎわっていた時期である。
さらに二年後には、尖閣列島、仲の神島を探検し、一九〇二(明治三五)年ごろまでに、県下の無人島を探険した。大東島、ラサ島、赤尾礁(宮古の西北、一名大正島ともいう)、鳥島など。イキマ島というのが、宮古の南三〇海里にあるということで、一八八六(明治一九)年発行の海軍水路部の海図には明記されていたが、古賀はその地点を中心として周囲一〇海里にわたって調査した結果、島影を発見しえず、イキマ島は存在せずと、海軍省に報告した。
尖閣列島を発見したのは日清戦争直前である。借地請願を政府へ出したが、政府では同島の所属不明なりとの理由で却下した。戦勝の翌年、三〇年間無償借地の許可をうけた。その前年、本籍を沖縄に移した。腰をおちつけるに足ると考えたらしい。一九〇〇(明治三三)年に、理学士宮島幹之助(北里研究所技師をへて、のち慶大医学部教授)と沖縄県師範学校教諭黒岩恒とに委嘱して、尖閣列島の風土病、伝染病、ハブ、イノシシ、その他の有害動物の有無や飲料水の適否などを調べさせ、その結果マラリア、伝染病はなく、ハブ、イノシシなどは生息せず、四島のうち魚釣島にのみ湧水のあることが発見された。尖閣列島とは、このとき黒岩の命名による。翌年、県技師熊倉工学士の援けをえて、苦心のすえ防波堤を築き、家屋や水タンクをつくり、人の居住環境を整備した。定住移民五〇人をひきつれてはじめた産業経営は、烏毛の採集、水禽の剥製、フカヒレ、海参(いりこ)、貝殻、べっ甲の採集、鱶漁、鰹節の製造、植林(樺、松、杉)、みかん類の栽培、開墾及び穀菜の栽培、珊瑚採集、牧畜、養蚕、燐鉱、鳥糞の採集など多方面にわたった。移住労働者の募集には、はじめほど苦労したが、事業の発展で一九一〇(明治四三)年頃には、出稼ぎがふえた。
一九〇五(明治三八)年に自宅の倉庫に二馬力石油発動機一台に遠心分離機二台、砂糖煮釜一個をすえつけて、白下糖を原料として分密糖を製造した。技師には香川県から水谷某、発動機の運転には福岡県から鶴某を招いた。農商務省では、その翌年に沖縄県庁内に臨時糖業改良事務局をおき、さらに三年後はじめて一〇〇トンの機械をすえて政策的に分密糖製造をはじめた。先覚者の古賀は、ひきあわなくなってやめた。
天然真殊を採取して、内国博覧会やパリの万国博覧会、ロンドン、セントルイスなどの博覧会に出品して受賞したが、大正初期から石垣島名蔵湾に御木本幸吉と共同出資で其殊養殖をはじめ、のち川平湾に移した。
一九〇九(明治四二)年殖産興業の功で藍綬褒章を下賜された。沖縄での第二号である(第一号は松田和三郎)。古賀が第一号をかちえたものに燕尾服(第二号は当問重慎)、安全カミソリ、ピストルなどがあるが、これらよりさきに、やはりあれだけの探検と産業とをあげるべきであろう。だが、古賀のために惜しむらくは、尖間列島の産業が時代にとりのこされ、のちに隆盛をみた大東島をせっかく占有権をにざっゃいたのに荷が重いとして玉置半右衛門に譲ってしまい、真殊養殖も御木本に譲ってしまうなど、すべてが偉大な習作におわってしまった。それでも彼はパイオニアとして満足であったのかもしれない。意気さかんな酒落者古賀辰四郎の手形を、失われたロマンのために、せめてはこの記録にとめておかねばなるまい。◎
(以上下記書からの引用)
_______________________________________________________________________
沖縄の百年
第一巻−人物編
近代沖縄の人々
新里金福・大城立裕著
琉球新報社編 太平出版社刊
昭和四十四年十月十五日第一印発行
|
|