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尖閣諸島は私の〝所有地〟です

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月24日(水)07時49分45秒
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  『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁


毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の〝所有地〟です

「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた〝地主〟の言い分

                        古賀善次(こがぜんじ)
                       (那覇市在住)


 登記は石垣島にある

▼解説1
 尖闇列島――。
 沖縄本島のはるか南西、洋上に浮かぶケシ粒のような無人島。日本の地図では、沖縄県石垣島に属する。魚釣島、南小島、北小島、黄尾嶼(久場島)、赤尾嶼(大正島)の五島と三つの岩礁からなり、総面積六千三百二平方㌔。もっとも大きな魚釣島でも東西約四㌔、南北一㌔の小島にすぎない。中国、台湾側の呼称は魚釣台列島。尖閣列島の名は明治三十二年、沖縄師範の教師・黒岩恒氏によって、その姿かたちから命名されたという。
 ところが、この小さな尖った岩礁が、五月十五日の沖縄復帰を機に、まさにトゲのように日、中、台の外交問題に突き刺さり、中国との国交正常化には避けて通れない重要懸案になろうとしている。
 いったい、こんな絶海の無人島が、なぜそれほどの領土問題になるのか。それは、この海底一帯が、世界の五指に人る〝最後の大油田〟だということなのだ。ニューヨーク・タイムスの評価によれば「一兆㌦以上の価値」とのこと、そう聞けば騒がれるのも当然というものだろう。
 そこでまず、台湾が自国の領土を主張して、魚釣島に青天白日旗を立てるなど、既成事実づくりを始め、一方的に世界の大石油資本ガルフ社に、採掘権を与えてしまった。
 そして、つい最近、中国もまた自国の領土を強く主張し始めている。だが、日本政府は、歴史的に自国の領土であることを確信してどこかのんびりと構えている。また一般に、日本人のこの問題に対する意識は低い。
 そこで問題は、この島が真に誰のものであるかということであり、歴史的なその経緯ということになる。
 これだけの問題をはらみながら、実はこの島、個人の持ちものだというのである……。その〝持ち主〟の名は、那覇市美栄橋に住む古賀善次さん。七十八歳。
 一兆㌦といえば、沖縄の年間予算の(二億㌦)の五千年分。この宝庫尖閣列島の所有者としては質素すぎるすまいで、リューマチとゼン息とを病んで寝たきりの古賀さんは、きちんと布田の上に正坐して、まことに淡々と〝所有〟の正当性を訴えるのである。

証言1
 私は子どももいませんし、考妻と二人でのんびり暮らしておりまして、正直石油騒ぎには関心ございません。
 尖閣列島が私個人の所有になったのは昭和七年からですが、そもそも尖閣列島は私のおやじが探険し、明治政府から使用権を受けていたものなんです。それはもうはっきりしております。
 私の父親、古賀辰四郎は、一八五六年(安政三年)福岡県八女郡に生まれました。八女地方はお荼の産地として知られ古賀家も代々荼栽培を主とする中流農家でした。
 古賀家の三男坊だった辰四郎は、明治十二年沖繩に茶の販売にきました。商売は順調に伸び、以後辰四郎は那覇に居を構えることになりました。そして明冶十五年、八重山石垣島に支店を設けたのですが、この八重山進出が尖閣列島探険につながったのです。当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったそうです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探険に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。
 この探険に詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう、翌十八年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
 ところが、父の話を聞いた当時の沖縄県令、西村捨三がたいへん興味を持ちまして、独自に調査団を派遣しました。調査の結果、島は無人であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に、これを日本領とするようにとしきりに上申しました。
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探険から十一年後の明治二十八年です。父の探険や西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言にふみ切らせた理由と思います。
 この結果父は、三十年無償供与という破格の条件で尖閣列島の借地権を手に入れることになります。破格とはいいますか、要は無価値に等しい島だからということでしょう。
 その後間もなく、父は数名の労働者を引きつれて魚釣島に渡りました。
 いちばん広くて水のあるのは魚釣島だけですからね。父が事業をしていたころは、久場島、南小島、北小島にも労働者が住んでいましたが、みな天水利用です。むろん畑なんかもできません。食糧は石垣島や那覇から運ばせていました。
 父はこの四島に、鳥の羽根加工や鳥の糞を含んだ珊瑚礁を切り出す工場を作り魚釣島にはカツオ節の製造工場も作りました。何しろ〝海鳥の宝庫〟です。カツオドリ、セグロアジサシ、アホウドリ、ウミツバメなどが群生していましたから。そして、加工した羽根や剥製は主にドイツを中心に欧州へ輸出しました。また、グアノと呼ばれる鳥糞を含んだ珊瑚礁は、肥料として台湾に売りました。
 事業は当たったようです。父が陣頭に立って、十五㌧程度の船が入れる港もつくられました。
 あの島に、多い時は二百人を越す工員や労働者が住みつきまして、活気にあふれていたものでした。
 大正七年、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年には三十年の借地期限も切れたのです。
 そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたので、昭和六年に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小鳥、北小島の四島は私の所有ということになったわけなのです。これら島の登記は、現在も石垣市にちゃんととありますよ。
 
 
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