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寄留商人の妻として-古賀花子さんに聞く(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 7月31日(金)20時00分16秒
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  寄留商人の妻として

   古賀花子さんに聞く(1)

著者:新崎盛暉



 □ 看護婦修業

 ――『新沖純文学』四十二号が、ヤマトの女性から見た沖縄というのを特集することになっておりまして、今回はそれと関連する方ということで古賀さんをお訪ねしました。古賀さんは例の〝尖閣列島″問題で昨今話題に上ったりすることも多いわけですが、きょうはその間題というより、戦前、本土から来られた女性として沖縄がどう見えたのかということや、また当時のいわゆる寄留商人の生活などについてのお話をおうかがいしたいと思います。

 さて、古賀さんは長野県でお生まれになったそうですが…。

 古賀 はい。

 ――お生まれになられたのは何年ですか。
 古賀 明治三十一年です。

 ――すると現在は……
 古賀 八十二歳です。

 ――で、長野でお生まれになって、東京に出て勉強をされて……。
 古賀 勉強なんていうもんじゃないんです。私の父がとてもひどい喘息で、痰が喉にからんで大変だったんです。ちょうどその頃、今のアドレナリンという薬がはじめてアメリカに出まして、町の三人のお医者さんが羽の先にその薬をつけて喉に塗りましたら、すぐ止まって、半年して発作が起こったときは〇・三の皮下注射をして、ようやく治まる状態だったんです。その後は発作の起こるたびに注射しなければ治まらない。先生の留守のときは、看護婦さんが来て下さる……。そういう体験がありました。それを見て大変に感心しましてね、それでどうしても看護婦になろうと決心したわけです。

 ――その頃、お父さんのお仕事は何をされていたんですか。
 古賀 父は警察の方におりました。父は明治の初め、金沢師範第一回の卒業生なんですが、そのとき同級生が三十七名いて、そのうち七名しか卒業できなかったそうなんですが、そのうちの一人だったんです。

 ――すると初めから長野ではないわけですね。
 古賀 ええそうです。駐在させられたところが信州の山の中の飯山というところだったわけです。

 ――そうしますと、古賀さんのお生まれたのはそこで……
 古賀 はい、飯山です。

 ――旧姓は何とおっしゃるんですか。
 古賀 八田です。

 ――お父さんは師範を出られて警察官というのは、随分畑違い……
 古賀 そうですね。畑違いですね。それで父は、私のことも師範に入れるつもりだったらしいんですが、看護婦さんがいろいろするところを見ていましたので、断然、看護婦になろうと思ったわけです。
 で、ちょうど飯山中学に加藤先生という剣道の先生をされてる人がいたんですが、その人のおじさんに当る東大の近藤外科の教授・近藤兼繁博士が、東京の駿河台下に私立病院を開いておられたので、その先生の紹介でそこに勤めたんです。でも私立じゃ、やっぱりそんなに勉強できませんでしたので、翌年、東大病院看護婦養成所に受験して、移ったわけです。

 ――その当時、若い娘さんを東京に出すということで、親御さんなんかに反対はなかったですか。
 古賀 おじさんという人を信用しきっていましたから。

 ――はじめは私立病院にいたわけですね。
 古賀 ええ、そうです。駿河台下、今、馬術クラブかなんかになっているところです。

 ――おいくつのとき、上京されたわけですか。
 古賀 今の数え方からいくと、十五歳ですね。高等小学校を出てすぐです。当時は、高等科を出ると師範か高等女学校の三年に入りましたね。そういうところ出るには長野市まで出ないとなりませんでした。



 □ 沖縄行のいきさつ

  ――東大病院には何年いらしたんですか。
 古賀 看護婦養成所は三年で卒業して、そのあと二年の義務年限があったんですが、その義務年限がまだ残っているときに、ひどい腎臓病を患って、途中で辞めたんです。その時、私は青山内科(明治天皇の主治医をされていた方)に勤めていましてね、同じ東大に入沢内科というのがあって、その助教授に呉建という心臓病の大家がいたんです。で、青山先生がその人に向かって、「おまえは病人の心臓はかり見ていても仕方がない。今度はひとつ、おれんとこの秘蔵っ子を貸すから、健康な人の心臓を撮ってみたら」ということで撮ってもらったんです。そしたら、これが普通の人の一倍半ぐらいも肥大していたんです。「きみは医者のいない所で働いているみたいじゃないか」と怒られまして、すぐ入院を申しつけられました。そのあと長野の実家へ帰って養生して、再び上京して、もう一度診てもらったところ、もうすっかりよくなっているというんです。で、近藤先生の病院へ勤めないかと言われるもんですから、いや私はまだ義務年限が残っていますからと言うと、改めて入り直すのは面倒だから、もういいよ、ということで、近藤先生のところに二年ばかりいました。そのあとまた病気になって休んで、また二年婦長として勤め、病気になって静養しているときに、当時、沖縄県立病院の院長をされていた橋本(のちの戸村)隆敏先生が、春の学会で東京にお見えになられて、で、ぜひ一年でいいから沖縄に乗てくれないかと言われましてね……

 ――すると、県立病院長とは以前からお知り合いだったんですか。
 古賀 ええ、ええ。近藤外科勤務は同じ時期でした。ちょうど私が大正五年六月の卒業で、橋本先生は同じ年の九月―当時、大学は九月卒業でしたから――に卒業されているんです。医者と看護婦という違いはあっても、同じ病院にいた、いわば同級生ですからね。で、新兵同士といいますかね、お互いに知ってたんです。台湾の医専の外科の先生をされていた本名先生も同期ですよ。

 ――じゃ、それまでは、沖縄のことは、ぜんぜんといっていいくらい知らないわけでしょう。
 古賀 ええ、そうです。

 ――ご両親なんかは沖縄に行くことをどんなふうに見られていたんですか。
 古賀 それがね、当時、ハワイに日本病院というのがあったそうですね。そこの内科・外科・婦人科の院長が私より三つほど後輩で、春の学会に見えられたときに、総婦長として私に来てくれないかという話があったんです。沖縄の話とあい前後してですね。それで母親に話したんですが、「ハワイは外国だ、沖縄はまだ日本の内だから、まあ沖縄ならいいだろう」ということで、沖縄行きはわけなく許してくれたんです。「もしおまえがハワイに行ってしまって、私にもしものことがあっても帰ってこれなかったら、どうする」ということで、ハワイ行きはどうしても許してくれませんでした。

 ――当時、東京から沖縄へは? 鹿児島まで汽車で、二日ぐらいかかったんですか。
 古賀 まあ、そんなものでしょうかね。

 ――鹿児島からは船で……
 古賀 船で二晩、三日めの朝に着くんです、夕方に出て。だからハワイの方が結局は早いみたいなもんですけどね(笑)。



 □ ひどかった病院施設

 ――それで、沖縄へ来られたわけですが、来てみてどうでした?
 古賀 それが、あまりにもイメージと違ってましてね。で、来たその日に、「もう私、明日の船で帰ります」といって、部屋に閉じ寵っていました。気分が悪いからといって。
 なにしろ、寄宿舎だって、もうぜんぜん豚小屋みたいで、畳もひどい。それに便所なんかも便器に縁がなくて、恐くって汚なくってとても入れやしない。台所もひどいもんだったし、寄宿舎っていうのも民家を借りているんです。下に四畳半が二部星と八畳が二室、上に八畳が二部屋あるだけで……。そんなところに住んだことがなかったもんで、ともかくびっくりしましてね。
 で、初日に庶務部長が迎えに来られたんですが、いったん挨拶に行ったらもうダメだ、と思ってね、で部屋に寵っていたんです。そしたら次の日、庶務部長と院長が見えられまして、一年でいいから、それに知事も知っていることだから、ぜひ頼むと言われるんです。
 当時は和田知事でしたよ。ちょうど船でこちらに来るとき、船がなかなか出ませんでね、鹿児島で和田知事と同じ宿屋だったので、いっしょになって話をしたりして知っていたんです。だもんだから、「知事もいることだし、君、やってくれないか」。まあ、そういうもんですから、翌日病院に出てみたんです。出てみましたらですね、病室がまたひどいんです。なおさらのこと……。汚なくて汚なくてどうしようもない。廊下にもベットを並べて……。ことばもよくわかりませんでしたしね。

 ――当時、県立病院にはどんな科が?
 古賀 私が行ったときには、内科・外科・婦人科・耳鼻科眼下・小児科なんかが、みんな開業されていましてね、新しく見えられた部長方は言葉が違うんで、だいぶお困りのようでした。

 ――医者は何名ぐらいでした。
 古賀 内科・外科・婦人科・耳鼻科・眼科・小児科の部長さん、それにレントゲン。その他に医員がいました。外科に二人、内科に一人、婦人科に一人……

 ――すると、総勢で二十人ぐらい?
 古賀 二十人はいませんでした。十数人ぐらいですね。

 ――当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
 古賀 そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部長では婦人科の饒平名(長田)紀秀さん、眼科部長の下茂門英信さんなんかがいました。

 ――看護婦さんは何人ぐらい?
 古賀 看護婦十五人、県費生五人。それに赤十字の生徒を五人、預かっていました。

  ――赤十字といいますと……
 古賀 ええ、県に赤十字の支部がありました。

 ――すると、その赤十字の看護婦養成所があって、そこが県立病院に委託して、看護婦を養成していたことになるわけですか。
 古賀 ええ、ええ、そうです。

 ――じゃ、実数は、見習いを含めて二十五、六名ということですか。
 古賀 ええ。で、赤十字は三年が年限で、一期五人でした。三年経ちますと、・東京の本社へ、一人か二人は行っちゃいました。

 ――で、古賀さんは婦長さんとして来られたわけですね。
 古賀 ええ、私は婦長でしたが。

  ――それはいくつぐらいのとき?
 古賀 数え二十四、おそ生れだから二十三蔵ですね。

  ――すると大正のおわりごろですか。
 古賀 大正の……大震災の前の年(大正十一年)でした。

 ――看護婦さんは、古賀さんより年下ですか、みんな。
 古賀 いや、私より年上の人もいましたよ。

 ――全員寄宿舎に?
 古賀 私より年上で結婚している人は通いでした。三人ぐらいいましたかね。そういう人たちは、勤務が四時までだったら四時にきちんと帰っちゃうんです。赤十字出られた方は時間なんかきちんとしていましてね、四時になると「時間が来ましたから」といって、仕事の途中でも帰っちゃうんです。私みたいに私立病院にいて、夜中でも患者が気になれば一生懸命やるという習慣がついていて、大きな手術やなんかのときは、たとえば婦人科で二つぐらい手術が重なれは、どうしても六時頃になりますよね。それでそれが終わるといったんは寄宿舎に戻るんですが、戻っても気になれは、又病室へ戻って、夜中でもなんでも、面倒みてたんですがね。

  ――あの当時、看護婦で、東京あたりから沖縄にやって来たというのは、初めての例ですか。
 古賀 私の前に、大阪の赤十字から来ていた人がいたそうです。



 □ 呑気な患者と困ったことば

 ――患者さんはどういう人が来ていましたか。
 古賀 来た頃は、市内の患者はごっそり、開業医についていきましたので、ほとんど田舎の人や離島出身の患者さんが多かったですね。当時の患者さんは、入院するとき頭にカゴを載せて、それに衣類やら七輪なんかを入れて持ってきていましたね。それでベットは木製で、下が戸棚になっていましたが、部屋で平気で七輪なんか燃すもんですから、ダメだというと、その七輪を下の戸棚の中へ入れて隠して煙を立てていたりするんです。なんていうか、ともかく田舎の人は呑気でしてね。
 たとえば、子供がジフテリアで咽を切開して入院していたんですが、その部屋から煙が立っているんです。それで部屋に入ってみますと、七輪が見えないんでおかしいなあと思ってたら、ベットの下の戸棚に隠してやってるんですよ。で、「この部屋で煙立てないように、炊事場でしなさいよ」と注意するんですが、そういっても、もう煙でね。そんなときは怒鳴りつけてやりましたよ、「こっちは助けてやろうと思って一生懸命しているのに、自分の子供を何と思ってるのよ!」と言って……。ともかく夜中まで眼が離せませんでしたよ。

 ――たとえば、東京の病院なんかと比べていちばん違うのは、どういうところでした。患者の衛生観念みたいなものは……
 古賀 私が東京でいた病院は、特別恵まれていましたからね。特等室がいくつもあって、それを一人で二つ借りたり、看護婦を特別に三人ほど雇って三交代で使っているような、まあ、田舎の金満家、多額納税者、それに華族の方やなんかが多かったから……

 ――ところで、当時は健康保険も何もない時代だから、田舎の人だといっても病院に入れるというのはある程度生活水準の高い人たちが……
 古賀 いえ、健康保険はありませんでしたが、たとえば、困っている人には生活保護みたいな制度があって、役所に届けて手続きすると医療費が免除される制度がありました。そういうことが出来るのは、一つの病院で三人ぐらいでしたが……。私もこんな経験がありました。
 その患者さんは、腸閉塞の手遅れで腐った部分を切ってつないで、やっと命を助けた人なんですが、一週間ぐらい入院して、まだ抜糸もしていないのに退院すると言いだすんです。それで「せっかく助かったのに、どうして」と聞くと、お金が続かないというんですよ。それだったら、いいから、いいから。そういう制度があるから役所から書類一枚もらってくれば、あとは私がみんな手続きして差し上げるから心配しないでと言ったんです。そしたら、「そんなことしたら村の人に顔向けができない」って言うんですよ。つまり自分の家に傷が付いちゃうと……。家柄をすごく気にするというんですかね。
 それで仕方がないんで、じゃ、きょうであなたは退院したということで手続きをしておいてあげるから、明日まで待って抜糸して、もう一日様子を見て、明後日に退院しなさいって……それで退院したんですが、それでも私心配だから、一週間したら必ずもう一度来なさいよと言ったんですがね……
 さっき話したジフテリアの子供にしてもそうですが、親が呑気というんですか、こちらが一生懸命しているのに、という気持ちでしたね。

  ――来たときはことばはどうだったんですか。
 古賀 よくわかりませんでしたが、一つ一つのことばはわかりましたからね。それに一つ一つの単語を並べると通じましたし。

 ――だいたい聞けるようになったのはどれぐらい経ってから……。
 古賀 一と月もすると聞くのは那覇出身の看護婦さんよりは私の方が……田舎のことばでも、宮古、八重山のことばでも聞けましたよ。いろんなところから来ますからね。まあ、年の功ですかね、私の方がよくわかりました。ただ言えないだけでね。

 ――二、三年経つと一段と使えるように。
 古賀 えっ(笑)。でも、続きませんよ。接続詞がうまく使えないですよ。それにこっちの人は敬語と普通の使い方が大変に違いますでしょう。それで、たとえば、新しく入って来た田舎出の看護婦さんに「ウー」という敬語を使ったことがあるんです。すると、それを見てた患者さんのお母さんが、なんであんなに若いのに敬語を使うのかといって、しかられたこともありましたよ。ずいぶんことばには区別がありましたね。



 □ 当時の看護婦の待遇

 ――さっき、廊下にもベットを出してといっていましたが、患者はあふれるぐらいいたわけですか(※)。
 古賀 ええ、一年ぐらい経ってからそうなりました。それまでは開業医にいたのが入ってきましたが。それで県会でも問題になりましてね、開業医から患者を奪ってる。性質上、県病院と開業医は違ってるはずだといって。

 ――患者がふえたのはどういう事情からですか。
 古賀 まあ、だんだん那覇の人も来るようになりましたしね。池畑さん(※)なんかが来られてからは、その周りの方も見えられましたし。

    ※池畑盛之助・不二男 盛之助は鹿児島県出身、明治
    十五年に寄留。大正四年那覇運送合資会社を組織、旅
    館経営。息子不二男は明治三十一年生。

 ――池畑というのは回遭店をしていた?
 古賀 ええ、そうです。といっても、そのころの病院はいまみたいな大はやりではなかったですよ。半日も待たされるなんて考えられませんでしたもの(笑)。

     ※ちなみに、大正十三年の『県勢要覧』によれば、県
     立病院の規模は次のとおりである。
  病床数  入院患者 延 人 員 外来患者大正 9  六五 七二九 二三、一三二 七、〇五二  10  六五 七〇九 一九、三〇〇  五、八四六  11  九〇 六六三 一五、二九六 五、四四五  12  九〇 九三〇 一八,一八一 五、六六二  13  九〇 九九三 二五,六一八 六、二二四

 ――いつ頃まで県立病院に勤められましたか。
 古賀 それがね、一度私、帰ろうと思ったことがあるんですが、チフスに罹りましてね。
 といいますのは、当時は日曜日も午前中は仕事をしていたんですが、そのあと善興堂病院の饒平名紀秀先生が泊のサチヒジャーですか、そこへ行こうと誘ってくれたんです。それで私、どうもここ十日間気分が悪いし、遠慮しますと言ったんです。そしたら気分直しにちょうどいいじゃないかというんで行ったんですがね。帰ってきて熱を計ってみたら、四〇度七分もあったんです。それで入院しなきゃだめだとやっているうちに気を失ってしまって……そのとき脳症を起こしたんです。世の中、わかったりわからなかったりという日が続いて、二ヵ月ほどして、はっきり気がついてみると、院長も副院長も代わっていましてね。
 で、その新しい院長も、ことばやなんかがよくわからないもんで、またいてくれないかというもんで、いたんですがね。その頃に謡曲の友だちができていたんです。もしその謡曲の友だちがいなかったら、もう帰っていたでしょうね。それで、五代日の院長に代わったときに、県の衛生課長にお願いして、まあ、仕方がないだろうということで、辞めたわけです。

 ――それはいつ頃ですか。
古賀 昭和二年でした。
――すると、七年間で院長が四代も代わったわけですね(※)。

    ※『官員録』によれば、大正九年~昭和三年までの県
    立沖縄病院長はつぎのとおりである。
    橋本隆敏 (大正九~大正十一年)
    ―――― (大正十二年は不明)
    渡辺 毅 (大正十三~十五年)
    山森吉治 (昭和二年)
    青田圭策 (昭和三年)

 古賀 ええ、当時は任期はせいぜい一、二年でしたね。副院長がなったりして。

 ――本土から来られて、七年も看護婦をされるというのは、めずらしい……
 古賀 ええ、まあ、そういうことですかね。

 ――七年間いたあいだに何どか帰省されたことは?
 古賀 三年めに一度、信州へ帰りました。

 ――当時の看護婦の待遇はどうでしたか。さっき寄宿舎の話が出ましたが……
 古賀 さっきお話ししましたけど、ハワイやなんかからも話があったんですがね、結局、沖縄に来たんですが、あとになって考えると、いちばん貧乏クジを引いたみたいですね(笑)。月給もいちばん安いしね。私、東京の頃は月給六十五円もらっていたんです。それに一流の方が患者さんで見えられるわけですから、今日は築地の精養軒に連れていってあげようかとか、今日は芝居の切符が入ったから二、三枚あげようとか……また自分で見たいものがあれは自分で見にいくとか、けっこういい生活ができたんです。
 ところが、沖縄は同じ六十五円でも、食事も被服もみんな自分持ちでしょう。東京では食事や被服やふとんやなんか、みんな病院の方が用意してくれるのが当り前でしたから。こっちへ来たら全部自分持ち……それで、みんなに聞いてみたんですよ。そしたら商業学校や水産学校の先生だって、それぐらいの月給で一家を養っているんだから、看護婦でそんなに出すのはとんでもない話だ、というぐらいのものでね。最後は七十五円でした。

 ――食事は外食で?
 古賀 いや、自分でしてもいいし、外食をしてもいいし…。

 ――じや、寄宿舎は寝るとこだけだというようなものですか。
 古賀 寝るとこだし、そこで自炊することもできたわけです。ですけど、東京ではふとんから毛布から全部ついているでしょう、部屋も一部屋ついていますしね。なんていっていいかしら……とにかく、こっちの寄宿舎にはびっくりしました。

 ――病院に勤めている間に旅行なんかはされましたか。遠足かなにかで。
 古賀 遠足はありました。燈台とか佐敷、与那原、セーファー御嶽、勝連城城趾、それに読谷城趾にも行きました。

 ――読谷城趾には鉄道で嘉手納まで行って……
 古賀 えぇ、それから馬車があってね。瀬長島へ行くときはいつも馬車でした。

 ――県立病院では往診とかはなかったんですか。
 古賀 いや、ありましたよ。

 ――そういうときは看護婦さんも付いて行って……
 古賀 それはあまりなかったですね。

 ――当時の看護婦の社会的地位といいますか、それはどういうふうに見られていたんですか。
 古賀 さあ、どうですかね。なかには、いい所の家へ嫁に行った人で、看護婦だったことを隠していらっしゃる方もいましたよ。

 
 
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