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寄留商人の妻として-古賀花子さんに聞く(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 7月31日(金)20時07分10秒
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  寄留商人の妻として

   古賀花子さんに聞く(2)

著者:新崎盛暉


 □ 結婚のため再び沖縄へ

 ――最初の七年間のあいだで、病院での生活以外に何が印象に残っていますか。
 古賀 さっきいった謡曲、唄ですね。それを習っていなかったら、私、そんなに長くいなかったんでしょうね。謡曲の先生は十文字屋さんといって、京都で修業されて、そこの先生方と同じぐらい実力のある方でした。それを習う前までは、当時、沖縄には映画館が二つありましてね、それが変わるたんびに、見に行ってましたよ。

 ――――謡曲を習っているのはどういう人たちですか。
 古賀 十文字屋さんというのは、中西惣吉さんといって呉服屋さん、習っているのは、私の近辺では、慶田さん、並州さん、それから米次という漆器屋さん、それに平尾さんなんかですね。慶田さんは酒・醤油の問屋、並川さんは金物問屋でした。その頃の写真がありますよ(※)。

    ※中西惣吉 明治十二年、京都生まれ。大正元年来県。
    観世流謡曲の大家。
    ※慶田覚大郎 慶応三年鹿児島市生れ。明治十二年那
    覇に寄留。酒類および醤油販売、米穀・砂糖・カン詰
    委託販売。
    ※並川亀治郎(襲名) 明治三十二年、那覇生れ。先
    代亀次郎は奈良県出身、明治三十二年の創業。金物、
    洋灰、鉄材セメント商。
    ※米次商店 「漆器商米次商店は開業以来既に二十有
    余年、県下同業者中泉も古き歴史を有し、…百余人の
    職工を使用し、一ヶ月約三千二百円を県外に輸出し居
    れり」(『沖縄県人事録】大正五年)
    ※平尾喜三郎 明治六年奈良市生れ。父喜八とともに
    明治十七年来県。内外雑貨商のかたわら、大正四年三
    共帽子商会(アダン葉帽子製造販売)を組織。貴族院
    議員。那覇商工会議所会頭。平尾商店は県内屈指の大
    商店として有名。『沖縄の百年・人物編】参照。

 ――(写真を見て)この中には沖縄の人も何人かいますか。
 古賀 そう、何人かいましたけどねえ、この中には佐久川さんといって製糖会社の工場長をされていた人が写っていますね。

 ――バックはどこですか。
 古賀 波之上宮です。いまは神社ですが、昔はちょうど今の神社の前に人が集まる場所がありますが、そこに拝殿がありましてね、その前で写したんです。毎年、謡曲の仲間で奉納していましたから。

  ――で、一度東京に戻られて……
 古賀 ええ、東京へ戻って新しい病院に勤めたんです。前に東京にいたとき同じ病院にいた医者が開業していまして…その医者も私が最初こちらに来たときの県病院の院長さんなんかと同級でした。で、そこで働いてくれないかというもんだから、四年ばかり勤めました。

 ――もう一度、沖縄へ来られるきっかけは結婚されるということで?
 古賀 ええ、そうです。沖縄にいらした牧師さんで、日本基督教会の植村正久(※)さんのお弟子さんがいまして、その人が結核で入院されて東京に来ておられて、その人から話があったもんで‥‥‥

 ――なんとおっしゃる方ですか。
 古賀 芹沢浩(※)牧師です。この方は、東京神学社に在学中のときに、植村さんがどうしてもこの人でなけれはならないということで、沖縄へ伝道にいらした方でしたが……

    ※植村正久一八五七-一九二五 プロテスタント教
    会牧師。富士見町教会設立。のち東京神学社を創立し、
    日本基督教会の牧師を教育養成。『旧約聖書』・讃美
    歌歌詩の翻訳によって明治文学史上にも名をとどめる。
    一九二三(大正十二)年に来島し、特別伝道を行なう。
    その時の模様は【沖縄キリスト教史料』(一九七二年)
    参照。
    ※芹沢 浩 静岡県生れ。一九二二 (大正十一)年初
    夏に沖縄赴任。一九三三(昭和八)年没。『沖縄キリ
    スト教史料』(一九七二年)を参照。

  ――じや、古賀さんもキリスト教には関心をもたれていたわけですか。
 古賀 ちょうど寄宿舎にそういうのに関心を持ってた看護婦さんがいまして、芹沢先生の特別伝道があるからというんで、いっしょに出席してみたんです。で、その話を聞いて敬服しましてね。当時は今みたいな立派な教会ではなくて、民家を借りたもので、県庁の内務部長なんかも椅子には座られないで、石垣にもたれて聞いていました。

 ――芹沢牧師とはこっちにいるときからご存知だったんですか。
 古賀 ええ、奥さんが信州の方で同郷でしたし、知っていましたから。

 ――じゃ、最初沖縄にいらしたときからご存知で、それで東京でまたお会いになった?
 古賀 はい、そうなんです。退院して見えられましてね。で、古賀善次(※)をどうかと言うもんですから。

    ※古賀善次 辰四郎長男、明治二十六年生。那覇無尽
    株式会社監査役、那覇鰹節商同業組合、沖縄県体育協
    会の評議員など。一九七八年三月死去。

 ――古賀さんとは以前からお知り合いでしたか。
 古賀 はい、顔は知っていました。でも何をしている人かはわかりませんでした。

 ――謡曲かなにかの仲間というわけでは?
 古賀 いや、そうじやなくて……古賀も謡曲を習ったことがあったらしいんですが、それはまだ付き合う前のことでして。

 ――善次さんはいろいろスポーツやなんかでも活躍されたようですが……
 古賀 さあ、それはどうですかね。古賀は大倉高商(現在の東京経済大学)にいるとき、肺尖カタルに罹ったそうで、あまり丈夫ではありませんでしたし。若い頃のことはよくわかりませんが。



 □ 当時の西町

 ――で、こちらに来られてお二人で、古賀商店をやられるわけですが、主たるお仕事は陸海産物間屋、それに海陸保険会社代理店ということですか。
 古賀 そうです。それで私が来たとき、母といっしょでしたが、いきなり来てみますと、店には何もないんですね。で、母が何をしている店か聞くんです。それで私もよくわからないと言ったもんだから、母は「どうして知らないところに来たのか、おまえは前にも沖縄にいたから、何もかも知っているのかと思って自分は信用して何も聞かなかったのに」と、ひどく驚いていました。今の人から見れば考えられないことでしょうけど、そんなものでしたよ。ああいう所は、船が入ると全部積んでいってしまって倉庫が空っぽになりますからね。そういうところへ、いきなり来たものですから……

 ――お店には古賀さんは立たれなかったんですか。
 古賀 ええ、うちはその主義にしました。私はお店には関係しませんでした。

 ――他の商店なんかもそうだったんですか。
 古賀 いや、他の所は奥さんも店に出ていましたよ。

 ――当時、店はどこにあったんですか。
 古賀 ここ、今のこの場所にありました。

 ――すると、この辺り(西町)は、当時、いわゆる〝寄留商人〟たちが多かったんですか。
 古賀 そうですね。道は今ほどは広くはなくて……みんな道に沿って並んでいましたね。こっちの事務所になっているところが昔は青野さんのお宅のあったところ、道のところに木村さんや浅田さん(※)なんかがいました。

 ――すると、いわゆる〝寄留商人″ばかりということに…
 古賀 そうですね。新嘉喜さんなんかは昔からの人です。宮里さんも大きなお家でした。

   ※古野島吉(襲名) 明治三十三年生。先代は福岡県
    出身、明治三十年に寄留。米穀肥料商。
   ※浅田五一郎(明治三十七年生)昇二郎(同三十九年
    生)兄弟。大阪市出身。漆器および陶器製造販売
   ※新嘉喜倫篤 明治二十五年、那覇市生まれ。県立一
    中、早稲田大学卒。新星堂書店経営。那覇市会議員。

 ――東町あたりには沖縄の人の店が……
 古賀 東町も寄留商人が多かったですよ。新元さんのお店もありました。ともかく戦後大きくなったところが多いですね。

 ――沖縄の方ではどんな人がいました?
 古賀 フジホテルの隣りのタクシー会社、あの隣りに新嘉喜倫篤さんのお家がありましたね。何百年続いているかしれませんが、なんでも戦争で焼ける前は、二四〇年前に建ったものだと言ってました。艶のよくでた、何ともいえないチャーギ(槙)造りの立沢な家でしたね。

 ――古賀さんのお家は、この辺りでは大きい方でしたか。
 古賀 いや普通ですね。中馬さん(※)のとこなんか大きかったですね。

    ※中馬政次郎 明治七年生。明治十八年に兄藤太郎と
    ともに那覇に寄留。雑貨商(米穀・石油・機械油・素
    麺・大豆・昆布など)。

 ――坪数はどれくらいあったんですか。
 古賀 ここですか。ここは敷地が二六〇坪、建て坪が一五〇坪ぐらいでしたね。

 ――それは蔵やなんかも含めて?
 古賀 ええ、そうです。

 ――蔵はいくつあったんですか。
 古賀 三つありました。それに鰹節の乾し場がありました。

 ――乾すのはこっちでやってたんですか。
 古賀 いや、たまに乾かすのが不十分なときなどに、ときどき使っていたんです。

 ――一五〇坪といえば、かなり大きいですよね。そうしますと、もともと西町にはお金持ちが多かった?
 古賀 さあ、どうなんでしょうかね。

 ――まあ、沖縄の庶民の暮らしぶりから見たら……
 古賀 そうですね。大きな屋敷といいますか、大きな門構えで、商店ではない家というのは、泉崎に多かったですね。古いうちで、入口に門があって、また中にも門があるというような立沢なお屋敷はね。とにかく、こちらのお座敷といったら、もう昔のは十六畳ぐらいもありますからね。私なんかは、何かあれば六畳と八畳間をつないで使っておりましたが、昔段は襖で仕切っていました。ところがそういうお家は、十六畳の間のうしろに控えの間もあって、広々としていましたね。

 ――-商人以外の地元の人たちで、大きい屋敷を構えている人というのは、何をされていたんですか。
 古賀 みなさん、貸家さんをしたり、質屋さんをしたり…。新嘉喜さんは、新星堂という本屋をされていましたが。



 □ 古賀商店と取り扱い商品

 ――古賀さんのところの商品は、主に内地に出荷していたんですか。
 古賀 そうです。

 ――すると、沖縄の小売店に出すということは余りなくて、鰹節などを本土へ送り出すという‥…・
 古賀 そうそう。鰹節や夜光貝。夜光貝といえは、平泉の中尊寺ですか、あそこの建物にも夜光貝が使われているということですね。それで向うから「京都大学の方で聞いたら古賀商店にあるはずだといっていたので、取り寄せてほしい」という依頼が来たんです。十五年ほど前ですかね。で、そのころは私の所ではやってませんでしたので、もと私の店にいた南海商会の日高さんに連絡して、なんかいいのを五百個ほど送ったそうですよ。

 ――結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
    ※古賀辰四郎 安政三年、福岡県生。明治十二年那覇
    に開店。同二十八年尖閣列島を探険、同二十九年開拓
    認可、翌年より移民を送りこみ、鳥毛採集、漁業、鰹
    節製造などの事業を開始、大正三年、八重山で真珠養
    殖事業開始。『県史別巻・近代史辞典』『沖縄の首年
    人物編」参照。
 古賀 亡くなられた翌年に結婚しました。

 ――すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになりました?
 古賀 ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、たくさんありましたよ。残しておけはよかったんですが、そんなものみんな空襲で燃してしまって……
 それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかといっしょに出掛けて、中華料理に使う……イリコみたいなものね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかはインドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のことはよくわかりませんけど……。

 ――それは直接那覇から?
 古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってました。

 ――じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって……
 古賀 そうです。

 ――大阪は支店ということで?
 古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入ると、東郷元帥に贈り届けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分でお書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥の字だとか言っていました。

 ――大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて……だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口があって。
 古賀 そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、そのお兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。

 ――当時、扱っていた商品は鰹?と夜光長のほかに何か…
 古賀 昆布頼、天草、貝類がいろいろあったですね。

 ――貝類といいますと、装飾用とかボタンとかに……
 古賀 そうそう。

 ――外には何に使っていました?
 古賀 塗物の中に嵌めたりして使ってましたが、主にボタンでしょうね。

 ――-海産物の外には何かなかったですか。
 古賀 八重山にゴマとか農産物、お米なんかを奨励して作らせて、それでできたものを自分で買い取ったりしていました。それにトゥーノチン……あの赤いようなお餅ができるでしょう、それなんかもやっていましたね。八重山のお米やゴマなんかは船から揚げると同時に、すぐこっちの小売店の人が並んで買っていました。
 それに、お線香の材料になるタブカワですね。タブカワというのは西表で採れたんですが、何か極細のお線香を作るには、西表産のものでないとできなかったそうです。

※管理人註 【トゥーノチン】 トーナチンのことでは。イネ科の植物で「タカキビ・ナミモロコシ」のこと。「沖縄にあるいろいろなお餅」によると、「イネ科の穀物で、見た目はトウモロコシに似ている。噛みごたえのある弾力、コクのある味。トーナチンを粉に挽いて、もち粉と半々の割合で混ぜて作るのがこの餅。ムーチーにも使われることがあります。ほんのりと甘く香ばしいけどちょっとほろ苦い大人な味。食感は餅というより『ういろう』に近い。」

※管理人註 【タブカワ】 タブノキ(椨ノ木)の樹皮。これを粉にしたものに水を混ぜると粘りけが出る。これと香木や香草を粉末にして香木や香草を粉末にして混ぜて線香や練り香を作る。




 ――そのお線香というのはヤマトで使うものですか。
 古賀 ええ、ヤマトの線香、細い極上のがあるでしょう、あれです。西表は国有地がほとんどだったでしょう、それで入札がありましてね。入札して仕入れていました。
 その外にはカンテンの材料になるテングサですか、そういうのも蔵にありました。

 ――真珠なんかはやってなかったんですか。
 古賀 はい、はじめのうちは御木本幸吉さんと組んで、辰四郎さんがやっていました。眼を付けたのは辰四郎の方が先だったらしいんですがね……それで八重山に照会したり、貝なんかを提供していたそうです。ところが、出来たものを見せてくれといっても、ぜんぜん見せてくれなかったそうなんです。で、善次は、いっしょにやっている仲間だのに、出来たものも見せないなんてことがあるかといって、手を引いたらしいですね。最初は辰四郎がずいぶん便宜をはかってあげていたようです。

 ――八重山にも支店があったわけですね。
 古賀 ええ、ありました。八重山といいますと、戦後、古賀といっしょに行ったことがあるんですがね。あそこの川平湾の裏側にパイン畑がずっとありますでしょう。それを見て私が「尖閣よりも八重山にはこんないい所があるんだから、目をつけておけばよかったのにね」と言ったらですね、古賀が「おまえ何言ってるんだ、そんなことはちゃんと考えていた」と言うんですね。あそこはマラリアがあって戦前はそう簡単にはいかなかった、台湾から人を呼んだりしてやったこともあるらしいですが……戦後になってアメリカがそのマラリアを全滅してくれたから、こんなに出来るようになったんだ、と言っておりました。

※管理人註 パイン畑はパイナップル畑のことだろう。



 □ 尖閣列島と古賀辰四郎

 ――当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。
 古賀 ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の配給がなくなったもんだから……。それで、石垣の登野城に、鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありましたかね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなっていて、民家なんかも建て込んじゃって、立ち退いてもらえないものだから、結局、安くでお譲りしたんですがね。

 ――すると、燃料の油の配給がなくなって……
 古賀 配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんかの食料を送らないといけないわけでしょう、働いている人たちの……。
 そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかもいいところばかり食べるもんですからね、脚気になるのが出てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしということで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。

 ――組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。
 古賀 いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自分たちの健康も自分たちで気をつけるようになる。それに、みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえるという仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつくということで……。

 ――すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわけですか。
 古賀 ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそうですよ。

 ――それは国からの指導があってやったんですか。
 古賀 いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えてやったんです、自発的に。私の聞いたところではそういうことです。

 ――工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんですか。
 古賀 はじめは大分から来ていました。後には八重山付近です。で、慶良間の松田和三郎さん(※)が鰹節工場のことで顕彰されたりしていますが、あれは松田さんが地元の人を使ってやったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなんですね。ただ職人が他県から来た人だということでね。藍綬褒章は翌年になったそうです。
 それで、思い出しましたが、辰四郎さんが亡くなられるときに「おれは考え違いをしていた。大東島を手離したのはおれの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしておりました。やっぱり拝借願いを出す前に探険するとき随分苦労されて、糸満の漁夫でも恐れをなしてへたばるというような嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。

    ※松田和三郎 安改元(一八五二)年座間味村生れ。
    間切長。鰹漁業開発に尽力。『沖縄の百年・人物編』
    『県史別巻・近代史辞典』参照。

 ――辰四郎さんが亡くなられたのは?
 古賀 昭和七年です。


 ――那覇本店には使用人は何人ぐらいいました。
   古賀 あんまりたくさんはいませんでした。戦争になってからはわずかで、若いのが三人と年寄りが三人、あとは船が入って忙しいときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。

 ――使用人は通いで?
 古賀 住込みは二人でした。

 ――主に沖縄の人ですか、使用人は?
 古賀 ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。

 ――沖縄出身以外の使用人は?
 古賀 山口県から一人来ていました。その人だけですね。

 ――八重山の支店をやっていた人は?
 古賀 照屋という人です。

 ――八重山のかたですか。
 古賀 いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)と同級だったそうです。

 ――古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしょう。
 古賀 古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんですがね、そのときの同級生です。その頃、御木本さんがおれのところはみんな大倉高商出を使っている、優秀だからそっちに行かしたら、ということで、移ったらしいんです。



 □ 寄留商人の社会と古賀善次

 ――当時、寄留商人の社会といいますか、食生活とか、そういうものはヤマト風で?
 古賀 うちなんか、いい方だと言っていましたよ。

 ――というのは、女中さんなんかの食事がですか。
 古賀 ええ、そうです。

 ――食事の内容やら料理の方法とかも、こっちの一般庶民とは違っていたわけですか。
 古賀 それは少し違うけれども、そんなに違っているわけではありませんから。

  ――作るのは女中さんが?
 古賀 ええ、そうです。使用人もこっちの人ですから、食事やなんかは沖縄風のチャンプルーとか、そういうものを喜びますからね。私たちとしてはそれの方がいいわけです。まあ、ときどきはおすしやカレー汁なんかしましたけどね。チャンプルーやなんかのときは、ただ主人のだけは余り油っ濃くしないでくれ、というぐらいでね、同じものでしたよ。お汁は豚か牛の入ったものの野菜汁やコンブ汁でした。

 ――女中さんとことばなんか、生活習慣の違いやなんかで苦労されたことはありませんでしたか。
 古賀 いや、ありませんでした。とてもよく働いてくれましたよ。とても従順とでもいうんですかね、こっちのいうことはみんな呑み込んでくれて、そのとおりにやってくれました。普通語も上手でした。
 うちは、日曜は女中さんも休みにしていたんです。そしたら近所の商店から文句が出ましてね。古賀さんがそんなことをすると、うちが困るというわけです。で、隔週休みにしたんです。それでも女中はたまに帰ったりしても、その日のうちに戻ってきちゃうんです。自分の家は天井が低くて眠れやしないとか言って……

 ――お手伝は何人ぐらいいましたか。
 古賀 私が来る頃までは三人いましたそうですが、私がきてからは一人でした。

 ――女中さんは主に那覇の人?
 古賀 首里、それから西原あたりから来ていました。

 ――辰四郎さんの頃と、善次さんがやってられる頃で、お店でなにか違っていたようなことはないですか。変化したというか。
 古賀 まあ先代はやたらに手広くやったもんだから、集金が大変でね。結局みんな貸しになって……あの頃はほとんど掛け売りでしょう、盆と正月の二回、集金に行くんですがね、それがなかなか入らなくてね。古賀も面倒くさがって、いちいち貸家なんかにも集金に行ったりするよりは、ということで、取引きするところも、小さなところは整理しちゃって、現金払いでやるようにしていました。

 ――善次さんの方は、その頃いろいろ名誉職なんかをやられていたようですが、商売の方は先代のころほどは……
 古賀 他の人がやっていて、古賀はたまに要所要所を見ているだけでしたから。

 ――すると番頭みたいな人もいた?
 古賀 一本立ち出来る人が三人いました。

 ――資料によりますと、何か琉球新報のスポーツ記者として活躍されたということですが、商売の方は半分は番頭にまかせて……
 古賀 記者っていったって、あなた、あまりそんなにしょっちゅう用事はありませんもの。大した仕事をしていたわけではありませんよ(笑)。

 ――毎日出掛けられなかった?
 古賀 無給ですからね。月給でももらっていれはそうもいきませんが。何かがあれは出掛けて行くようなものでね。

 ――すると、まあ趣味みたいなもので、楽しんでやっておられた……
 古賀 そうですよ。

 ――記事はよく書いていたんですか。
 古賀 それはもう、ずいぶん。

 ――運動部記者になられるきっかけは何でした。
 古賀 古賀はピンポンが好きで。上手でもなかったんですがね、沖縄でピンポンしようにもルールを知っている人がいない、それにテニスもそうだったらしいですね。それで当間重剛さんやなんかといっしょに、そういうものをしていたようです。
 ピンポンといえは、日本語で卓球というでしょう。あの卓球ということばは、古賀が最初に使ったらしいんです。というのは、記者をしているとき、割り付けの関係でね、ピンポンじゃ字が入り切らなくなって、それで卓球ということばを新報の記事で使った、それが東京へ行って広がったと言ってました。東京の協会へ照会したら、古賀の方が六年早く使っていたというんでね。

 ――ベルリン・オリンピックにも取材に行かれたそうですが。
 古賀 ええ、ちょっと家をあけるからというもんですから、九州あたりにでも行くのかと思っていたら、ベルリンだったんですね。当時はシベリア鉄道で行ったそうです。それだって自費ですよ。

 ――すると、まあ古賀さんは、一代めはあちこち開拓して歩いて、善次さんの代には名誉職なんかが増えてきて、その間、記者は趣味でやってる……そういう感じですかね。
 古賀 まあ、そういうことでしょうね。古賀が残したメモ帳があるんですが、それを読んでいますと、親爺は開拓してあっちこっち歩き廻っているが、ばくはからだが丈夫でないから、ユースホステルをリュックを背負って渡り歩いているようなもんだ(笑)。しかし、もしからだが丈夫であったら、その素質はあるだろうから、あっちこっち開拓して歩いていたかもしれない、なんて書いてありますね。

 ――当時の寄留商人の社会と、沖縄の一般の人たちとの付き合いは、どうでした。あまりなかった?
 古賀 そうですね、辰四郎お父様は尚順男爵などとは相当お近くて、別荘の集まりなどには善次も幼いころから連れてゆかれたようです。

 ――寄留商人の子どもたちが、沖縄の人と結婚するとかいうものも、ほとんどなかったんですか。
 古賀 そうですね。あるにはありましたけれど、まあそれは恋愛でお互いが好き同士でというような例外的な場合で、普通は本土の人同士で結婚するのがほとんどだったのではないでしょうか。

 ――寄留商人の二代め同士の結婚とかは?
 古賀 ええ、それはありましたよ。

 ――ご婦人方の社交界みたいなものはなかったんですか。
 古賀 愛国婦人会、国防婦人会、キリスト教婦人会、女子警防団などなかなかお付き合いは多うございました。こちらの女子青年団をつれて古仁尾に慰問に行ったこともありました。

 ――こちらの方との交際は?
 古賀 そうですねえ……新嘉喜さんとか、当間さんとか、金城さんとか、そういう方とはお付き合いしていましたよ。要するに古賀は寄留商人とはよく付き合っていましたけれども、ほんとうに腹を割って話し合える友だちというのは、そういう沖縄の友だちだった、そういっていましたね。

 ――金城さんといいますと?
 古賀 ほら、いま一番の踊りの先生……真境名佳子さんのお父さん。

 ――よくお知り合いだった当間重剛さんなんかは、戦前那覇市長をされたりしていますが、県議会とか選挙とか、そういうものに対してはどうだったんですか。
 古賀 当間さんとはよく知り合っていましたが、選挙とかそういうものはやりませんでした。


【画像・トゥーノチン】
 
 
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