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寄留商人の妻として-古賀花子さんに聞く(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 7月31日(金)20時11分9秒
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  寄留商人の妻として

  古賀花子さんに聞く(3)


著者:新崎盛暉



 □ 戦争と古仁屋への慰問

 ――さっき古仁屋に慰問に行かれたといっていましたが、それはどういうことなんですか。
 古賀 それはね、ちょうどこちらに、鹿児島から台湾までの間を受け持っておられる海軍の部隊長さんが、港にお見えになったことがあるんです。そのとき、女子青年団なんかを連れて接待したことがあるんです。そしたら古仁屋の方に、二六〇〇名ばかりの兵隊がいて、みんなホームシックを起こして、慰問に来てくれるのを欲しているから、ということをお聞きしたもんですから。

 ――それは町内の女子青年団ですか。
 古賀 はい。

 ――で、慰問団というのは、ほとんど寄留商人の方の……
 古賀 私たちのところはそうでしたね。

 ――少しは沖縄出身の人もいた?
 古賀 ええ、いました。琉舞は上之蔵のお医者さんの娘の又吉政子さん。それで、兵隊さんを講堂に全部集めてやりました。お琴があり、■り……琉球舞踊あり、日本舞踊あり、それに空手があり、そういうものをいろいろやりました。

 ――それはどういう所で習ったんですか。
 古賀 みんなが集まってね。

 ――みんなが集まる場所というのは?
 古賀 私のうちでやりました。

 ――琉球舞踊やなんかも?
 古賀 きょうは琉球舞踊というときは、それを教えているところでやって、で、全部が集まってやるときは私の家に集まりました。

 ――空手なんかは道場で?
 古賀 ええ、空手はあの有名な松山御殿の娘さんで、空手道場へ通っていました。

 ――女の人たちですか?
 古賀 ええ、そうです。よくやってましたよ、女の人も。

 ――当時、琉球舞踊を教えたりしている人はたくさんいたんですか。
 古賀 よくわかりませんが今ほど多くありませんでした。日本舞踊は風月の先生……琉舞は、新垣松含さんの娘さんの比嘉澄子さん 今、泊にいらっしゃる――あの方が教えていました。
 ともかく、いろんなことをやりましたんで、向うではとっても喜んでもらいました。古仁屋に一晩泊って、次の日は山の中の観音様のあるところ、それに各離島にも行きました。離島はいろいろ不便で、兵隊さんもかわいそうだからというんで……。とにかくひじょうに喜んでもらいました。お船も部隊長さんの黄色の毛布の備えられたハシケを出して下さいました。

 ――疎開されたのはいつ頃ですか。
 古賀 焼け出されて、いる所がなくなっちゃったから。

 ――というと、十・十空襲?
 古賀 ええ、そうそう十・十空襲。

 ――すると、焼ける前までは?
 古賀 焼ける前まではここにいましたよ。古賀は町内会長なもんだから、町内の世話をみなきゃならないし、私は警防団の救護班長、ぜんぜん疎開はしませんでした。いちばんおかしかったのは、周りがみんな疎開しているもんですから「疎開しないのはうちだけよ」という話をしたんです。そしたら古賀が「したけりゃしたらいいじゃないか、国家に奉仕しているならそれでいいじゃないか」……そんなふうでしたね。

 ――町内会長は、いちばん最後に疎開されるわけですか。
 古賀 ええ、まあそうですけど……。それで「おれがいちばん癪にさわることがある」と古賀が言うんです。それは戦争も終わりの頃、ちょっと戦況があやしくなったもんですからね、各町内会長の集まりがあったとき、その会議で、ベルリンの空襲はこうだった、その詳しい報告はわからないけれど、随分ひどいもののようだから、こんどの空襲は市民のバケツ送水ぐらいじゃ間に合わないと思う、避難訓練をしたらどうか、と言ったらしいんです。そうしたら「非国民!」と他の町内会長に言われた。「そんな非国民の考えがあるか」と。バケツ訓練は十分にしてありますが、しかしそんなもんはとても今の空襲には間に合わない……。ちょうどその会議の前々日だかに、パリの空襲、ベルリンの空襲が伝わってきたときなんです。「家を守るよりも、むしろ命を守った方がいいじゃないか、避難訓練をやったらどうか」と言ったら、けなされちゃったものだから、帰ってきて、一生懸命、私を口説いていましたよ。結局、あの十・十空襲の日は、バケツ送水ぐらいじゃ、ぜんぜん間にあわなかったわけですがね。



 □ 十・十空襲――首里へ避難

 ――十・十空襲のときはどこにいました?
 古賀 ここです、自宅です。ちょうどそのときお手伝いは禄の飛行場に行ってましてね。といいますのも、当時は、きょうはどこの女子青年団、あすはどこの警防団と、日ごとにそういう団体が引っばり出されていたんです。お手伝いは女子警防団員として行ってたんです。私らなんかでも、町内会から二五〇人だったら二五〇人ずつを、それぞれの家数に応じて割り当てられたものです。私らも角材運びや土嚢運びをして飛行場作りに招集されたものです。若い連中は監視哨に行っているでしょう。

※管理人註 「禄の飛行場」 那覇飛行場(小禄海軍飛行場)のことと思われる。今の那覇空港。




 ――監視哨といいますと?
 古賀 ほら、港の向うにあったでしょう……気象台ですか、あれを小さくしたようなものです。若い連中はそういう所に駆り出されていました。

 ――すると、空襲やなんかを監視する所?
 古賀 ええ、敵の船が来るかどうかとか。

 ――それはあっちこっちにあったんですか。
 古賀 あっちこっちにあったらしいですよ。うちの連中だけでも二人が駆り出されていましたしね。いつごろ作られたものなのか、詳しいことはわかりませんが。

 ――で、十・十空襲に遭われて、どうされましたか。
 古賀 最初の空襲のとき家の防空壕にいましてね、主人は警報が鳴ると同時に、町内のあちこちを廻って、ひととおり全部廻って帰ってきてから、推それはどうこうしていた、新嘉喜さんの奥さんは、ふとんを頭にかぶってたよ、諸見里の奥さんはシンマイナベをかぶっていたよ、とか、おかしな見てきた話をしていたんです。そして、その話をしているうちに、またドカドカドカドカでしょう。最初の空襲から次の空襲までには一時間ぐらい間があって、そのあとはもう十五分間隔ぐらいに、ドカドカですからね。で、最初のうちは、屋敷の庭にあった防空壕に入っていたんですが、もうどうしょうもないんです。防空壕から、よく見ると、家の柱がこんなにひん曲って、またすぐそのあとにドカドカですからね。それで、旭橋、あの旭橋が燃えたら、もうみんな火の中で蒸し焼きにされるからといって、町内会の書記が迎えに釆てくれましたので、それでリュックひとつを担いで午後二時すぎから避難を始めたんです。そしたらですね、旭橋を渡るまで、わずか数百メートルの距離ですが、三回ぐらい空襲があって、そのたびに道端の防空壕に入っては、しばらく待ったりして、ようやく渡り着いたら、そこには大きな防空壕がありましてね。そこにしばらく入っていました。
 そのうち、少し空襲も遠のいたので、そこを出まして、晩の八時ぐらいまでに首里にたどり着いたんです。その時、リュック一つですが、古賀は息ぐるしいとリュックも棄てました。

 ――その時、首里はまだ焼けていなかったんですか。
 古賀 はい。ちょうど当時は那覇に鉄道がありましたね。その鉄道の内側、こちら側だけが焼けたんです。ちょうど安里の一高女の辺りまででした。

 ――古賀さんたちが首里に避難されるときには、近所の人たちはすでに避難していましたか。
 古賀 ええ、朝にひどい空襲があって、そのとき出掛けたようです。私たちがいよいよ避難しようと決心したとき、隣り近所に「皆さん、もうあぶないから出ましょう!出ましょう!」と大声で怒鳴ったんですが、誰も出て来ないんです。もうその時にはみんな避難していたんですね。

 ――そういう人たちも首里に?
 古賀 みなさん、田舎やなんかに知り合いがいましたから、そっちの方へ行ったんでしょう。

 ――で、古賀さんたちは首里に行って……
 古賀 はい、首里の末吉というところに行きました。そこの岩陰みたいなところに大きな防空濠があって、そこへ入れてもらったんです。もういっぱいで、入り切らないぐらい集まっていましたけどね。そこでしばらくいると、夜の十二時ぐらいだったか、警防団の人が来ましてね、で、「敵が上陸するかも知れんから、みなさん、北の方へ向かって行って避難して下さい」と言うんですね。そしたら、みんなお出になられたんです。そこに居残ったのは、古賀と私と、それに尚琳男爵、そのお供かなんかの人と、私どもに宿を貸して下すった新垣信一枚師の奥さま、たったそれだけでした。あとはもうみんな出ていったんです。主人が「おれはもう歩く元気もない――喘息でしたからね――、ここでやられたらやられたでいいよ、自分でするだけのことはしたから、おれは動かんよ」といって、じっとしていました。
 そうしているうちに、首里には、ちょうど以前から知っていたその新垣牧師さんの家族がいたもんですから、そこに行きました。牧師さんは八重山に行っていて、奥さんと子供さんだけだったんですから。そこには、武部隊の戦車部隊長もおりました。





 □ 戦争中の生活

 ――もうその頃には、だんだん商売もしにくくなっていたんじゃないですか。
 古賀 はい。それはもう……品物が入らないし、海上も危険ですしね。で、なかには、どこそこは荷物をいくついくつ、あっちは二五〇個ぐらい運んだとか、お宅はどうなんですか、という人もいましたよ。よく人のもの調べてる暇があるなあと思いますがね(笑)。
 私のとこの蔵はもともとそんな大きなものじゃなかったんです。五間に八間の二階造りの蔵でね。そこにいろいろなものを入れておりました。輸出用の荷物が主でしたが。

 ――お米なんかはどうだったんですか。
 古賀 お米はどうか知りませんが、ゴマやテングサ、それにタブカワなどが入っていました。

 ――貝類やなんかも?
 古賀 貝類はもう外に出しっぱなしにしていましたね。

 ――その蔵だけは焼け残ったんですか。
 古賀 ええ、そのいちはん大きい蔵だけは残りました。隣り近所でも焼け残ったのは、うちのその蔵と、木村さん(※)と池畑さんのとこと三つだけで、あとは、みなさん立派な蔵を持ってらっしやいましたが、窓が開いていた、どこが開いていたとかで、火が中へ入って、みんな焼けちゃったんですね。

    ※木村栄左衛門・義雄親子 栄左衛門は福岡県出身、
    文久二年生。明治二十一年に来県、大正四年那覇運送
    合資会社創立。義雄は明治二十二年鹿児島生れ。沖縄
    近海汽船株式会社専務、沖縄製永株式会社専務などの
    要職歴任。米穀肥料商。

 ――土蔵だったんですか。
 古賀 土蔵です。ですが、下の方は鹿児島産の石で固めて、上の方は粟石を使ってましたがね。ところが屋根は普通のこっちの屋根なもんだから、おそらく火が入っていると思ったんですが、運よく残りました。

 ――普通の屋根というと赤瓦の?
 古賀 ええ。それにちょうど空襲のとき、私は二階に上がりましてね、開いている窓をしっかり閉め、兵隊さん用に使っていたふとん一組と蚊帳一つを放り込んでおいたんですよ。それであとあとまで助かりました。本土へ疎開するときにも持って行きました。輸出用の品物は誰かが輸出して大阪港には着いていたそうですが、私どもには一銭も入りませんでした。

 ――兵隊が民家に泊ったりしだすのはいつ頃からですか。
 古賀 あのね、商工会議所が暁部隊に接収されたとき、商工会議所としてはどこかに事務所を代わりに見つけなくてはいけない、会議やなんかで多勢集まれるところでなきゃということでね。うちの二階を貸せということになったんです。ですから、十・十空襲の一、二年ぐらい前かしらね。

 ――ずっと二階は商工会議所が使ってらしたんですか。
 古賀 いえ、人が集まるときだけでね。平生は事務員だけです。それに金庫なんか置いてありました。空襲後は何か開けっぱなしになったままでしたが (笑)。

 ――じや、古賀さんの所には兵隊はいなかったんですか。さっき首里の牧師さんのお宅に戦車部隊長がいたとおっしゃってたんですが、そういうことはなかった?
 古賀 ええ、そういう形でならうちにもいましたよ。部隊としてはいませんでしたが。海上保安庁みたいな所の部隊長――大尉ぐらいですがね――。その部隊は商船会社の二階にいましたが、部隊長はうちで寝泊まりしていました。

 ――そういう人は、まあお客様扱いで‥…・
 古賀 ええ、まあそうですね。その人は、キスカでやられて、またこっちでもやられるのか、なんて言ってましたけど……

 ――それは何か割り当てみたいに配置されるんですか。
 古賀 ええ、うちはそうでした。

 ――大きな家には割り当てがあったわけですね。
 古賀 ええ、ええ。中馬さん、古野さん、新嘉喜さんとか……大きい所で三人、小さい所で一、二人ぐらいだったんでしょうか。
 それとね、たとえばあした船が出るというんで兵隊さんが招集されて港に来たんだけれど、海上の具合が悪くて船が出ないというときには、この近辺の家に割り当てがありましてね。たぶん畳数に応じてだと思いますが、兵隊の面倒を見ていました。一度など私の所に七十人の割り当てがあったんです。七十人と言われてもね、お茶腕(茶碗)も私のとこにはせいぜい五十人分ぐらいしかないし、困っちゃうなあと思ってね…まあ、実際には割り当てられたのは十八人ぐらいでした。十八人といったってねえ、その人たちは五晩も泊って六日後の朝に出ていかれたんですが……。まあ、その人たちは何日もかかって、ようやく鹿児島に着くことができたそうなんですが、うちに泊まった兵隊さんのなかには途中でやられてしまった人たちもおりました。

 ――その兵隊さんは徴兵で?
 古賀 ええ。だからいい加減年輩の人も多かったですよ。みんな地方から出てきた人でしてね。なかには、無事帰って来られて、わざわざお礼に見えられた方もいました。

 ――そうすると、戦争中は、常にそういうことで駆り出されていたんですか。
 古賀 あっちこっちから兵隊が送り込まれてきたときですね。そういうときは、ご飯作りやなにかでね。たとえば、一俵のお米を一度に炊いたりね……料理の仕方や盛り付けも手際よく早くできるように随分工夫をしましたよ。で、そういうのに取り出されるのは、たいていは女中がいて子供のいない人に眼がつけられてね、向うの方でちゃんと名簿なんかに付けられていてね。たとえば私に電話がかかってきたら、私から誰と誰に連絡をしろ、で、そこからまた、誰と誰に連絡しろ、というふうにして、みんなが一度にいっしょに集まらないように、せいぜい二、三人のグループで、三々五々、港に集まるんです。で、港の空いた蔵の中へナベやカマやお米などを運び込んでね……まあ、話の外でしたよ。

 ――ご婦人方は、主にそういうことをされていたわけですか。
 古賀 私は救急班長も六年間していました。なかには踊りやなんかの慰問専門のグループもあったらしいですが……



 □ 信州へ疎開

 ――で、さきほど首里の牧師さんのお宅に避難されたとい
うことですが、その後はどうなさったんですか。
 古賀 それがね、牧師さんのお宅にいた武部隊の戦車部隊長が、私たちがそこへ行って間もないうちに、こう言われるんです。「あした疎開船が出るから、当然疎開なされるでしよう」。すると主人が「いや、ぼくは父の代からこの土地でお世話になっているから、疎開する気持ちは毛頭ありません。家内も救護放としてお役に立てますし、どこにいてもお手伝いはできますから」と言ったんです。そしたら、その部隊長が「バカも休み休み言って下さい」と、怒鳴られるんですよ。
 で、「どうしてですか」と聞き返したら、「今の戦争は女や年寄りに手伝ってもらってできる、そんな生やさしい戦争だと感違いしないで下さい。それだけのお気持があったら、あんた方二人が疎開したら二人分の口が兵隊にまわる。だから口減らしのためだけでも疎開すべきだ」と言うんですね。
 主人は「失礼だ。そんなふうに取るなら、何で手伝うものか!」と言ってね、それで疎開したんです。今になって考えると、この部隊長は命の恩人だと思います。

  ――それは十月の何日でした。
 古賀 十月十七日だったと思いますが、二年ほど前からお親しくしていたカモメの艦長が使者をよこされて、今度は疎開なすったほうがよいでしょう、ということで、そのお船で疎開しました。

  ――部隊長は以前からご存知でした?
 古賀 古仁屋に慰問に行ったときから海軍の方とは親しくなっていましたから。みなさんが港へ交代で見えられるでしょう。そのたびに私たち、迎えに出ていたんです。女子青年団のメンバーを呼んでは、お給事を手伝ってもらって、踊ったり三味線をしたり、一晩楽しくしてお帰りになっていました。そのなかのお一人で、下士官をされていた人が、ちょうど空襲で焼けぼっくいで首里の疎開先を書いといたんですが、それを見て、探し探し首里に来られたんです。
 で、いよいよ疎開というんで、ここの港に来たんですが、砂糖やなんかたくさん積んであったのが焼けてしまってね、一面に砂糖が溶け出して、歩くとべトべト、脚がそのなかに埋まるんです。それで船に乗りました。船の中で、あんなに砂糖があったらなあ……と思いましたよ。

 ――船は一般の疎開船ではないんですね。
 古賀 疎開船を四艘で警備していて、その四艘のうちの一つでした。艦長は謡曲のお友だちでした。

  ――じや、他には疎開者は乗っていなかった?
 古賀 他には西の町内会の事務員と、それに艇長をやっていた人が乗っていました。その人は四月十八日の東京空襲のとき哨戒艇の艇長をしていて、かろうじて助かったんだと言っていました。

 ――寄留商人の人たちは、だいたいいつ頃から疎開をしていましたか。
 古賀 寄留商人は家族の方が疎開していましたね。

 ――いつ頃ですか。
 古賀 だいたい空襲の一年ぐらい前ごろからですかね。それで、寄留商人の方は二、三人、たとえば番頭と息子、子女と母親というふうに、誰かが死んでも誰かが生き残れるように、上手に割り振りして疎開させていました。

 ――じや、十・十空襲のあとには、もうほとんどの人が疎開をしていたわけですね。
 古賀 だいたいそうですね。みなさん鹿児島、熊本、宮崎、大分に行かれたんではないですか。

 ――で、古賀さんの疎開先は?
 古賀 私は須坂、その頃はまだ上高井郡井上村幸高といってましたが、すぐ須坂市になりましてね。長野布から南へ三里ばかりのところでした。そこでも古賀は、小学校なんかに引っばられて、野球やなんかの指導をしていましたよ。



 □ 戦後・沖縄へ引き揚げ

 ――沖縄に引き揚げて来られるのは、かなり経ってから?
 古賀 十八年、経っていましたよ。
――その十八年間は、やはり看護婦をされて……
 古賀 はい。こちらに帰る前の十年間は、そうしていました。
 はじめの七年は信州にいて民生委員やお花の指導員、それから大阪に八ヵ月ほどいました。大阪には昔、古賀の父が面倒を見ていた人の甥がいて、その人が呼んでくれたもんですから。大阪府下の吹田という所だったんですが、行ってみますと、荷物を運ぶのに付いて歩くのが古賀の仕事でしてね、そういうのは古賀にはぜんぜん向いていないことは、私はよく知っていましたから。それで、これくらいの生活なら私にまかせて下さい、私が働いて、あなたはどこへでも遊んで歩けるようにしてあげるから、ということでね、それで東京へ出て、看護婦を勤めたんです。「月給ここに入れておきますよ」というと、古賀は好きな時に使って、まあ自由にやっていました。古賀にも女房に養なってもらってるという気持ちはなかったはずです。

 ――その頃、沖縄の情報は入ってきたわけですか。
 古賀 ええ、まあ、たまにですけどね。古賀は、沖縄には米軍がいるのに、なんで敵のいるところに行けるか、なんて言ったりしていましたけどね。

 ――すると、その間には一回も沖縄を見に来られることはなかったんですか。
 古賀 ええ、ありませんでした。

 ――全財産はこっちに置いたままですね。
 古賀 全財産ていったって、商売しているわけじゃないから、ただ土地だけですね。八重山の支店も二九〇坪ほど残っていたんですがね、向うにいた支店長が社長になって店を始めていてね。

 ――すると、海産物問屋か何かを?
 古賀 ええ、やってました。うちの店も使い、蔵も使い、そのまんま……。そっちが本店で、那覇にはまた南海商会というのがあって、それが支店としてやってたんです。で、ともかく地料として、月々三千円ほどですか」送っていましたがね……その話が出たときに、私が「あんた、少し言ったらどうなの」と言ったら、古賀は「まああれも苦労してやり出したんだから、やらしておけはいいじゃないか」というふうでね……。文句を言いませんでした。結局、安くてお貸ししたんですがね。ところが、私たちがこっちへ帰ってきたら、間もなく本店の方も支店の方も死んじゃったんですよ。

 ――さきほど、沖縄には米軍がいるから帰らないとおっしゃっていましたが、戻って来ようと決心されたキッカケは?
 古賀 向うにいる間に、今が稼ぎ時だなんて言って来られる方が見えたりしたこともあったんですが、直接のキッカケは当間重剛さんなんかが、いつまでぐずぐずしているんだ、もう帰れよ、自分の土地も戻ってくるし、アメリカも、君が思ってる、そんなもんじゃないよ、とにかく一度帰って来て付き合ってみたまえ、と。そして野球と庭球の大会に招待して下さったんです。昭和三十七年に……
 で、その翌年にこっちに帰ってきました。帰ってきて、あっちこっちの外人さんともお付き合いしてみて、古賀が「アメリカは思っていたより、みんなとても親切だ」と言うんです。キャラウェーさんとは、まあ会議やなんかでご招待のあったときに付き合う程度でしたが、ワーナーさんとはよく付き合っていて、感じのいい人だなあと言っておりましたね。

 ――引き揚げて来られてから、古賀さんは何をされていたんですか。
 古賀 それがね、古賀はロータリーの会員に推薦されたんですが、会員になるには何か仕事がなきゃいけないというんで、さっき話に出た昔うちの番頭だった人のしている店の取締役というのを、名前だけもらってやってました。

 ――すると、こちらへ来られてからは、古賀さんは悠々自適といいますか、名誉職をされて……
 古賀 ロータリーの書記をやらされてね。それで、ずっとまじめにやっていましたよ。他に用事がないんだから……。自分の好きなことをやったんだから、まあまあだと思っているんです。


 ――土地はどうなっていました。区画整理も済んでいて…
 古賀 ええ、区画整理されて、そして車置き場になっていたんです。うちの土地の一部で車置き場をやっていた人は、安謝かどこかに引っ越されたらしいんですが、行かれるとき、長いこと拝借しましたと、お礼の一言もなく、出て行かれました。

 ――じや、無断借用していた?
 古賀 ええ、まあ無断借用です。で、いちばん向うにいた人は、やっぱり車置き場していたんですが、自分たちの借りていた分は、地料を払ってらっしゃいました。

 ――そうしますと、帰ってきたときは、こちらにはいらっ しゃらなかったんですか。
 古賀 ええ、帰って来てからは十年ぐらい借家をしてました。国場ビルの隣りのちょっと空地のある所に……。十坪ぐらいでしたかね。八畳一間と四畳半と三疊の家でした。小さい家だったんですが、あそこは交通に便利ですからね、譲ってくれと頼んだんですけど、どうしてもダメだと言うもんで……。で、もう年だしね、いつなんどき倒れるかもわからんのに、私、借家から葬式を出すのは嫌よ、と言ったんです。そしたら、じゃ作るかというんで、この家を作ったんです。



 □ 尖閣列島の処分

 ――黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初から、まだ本土におられるときから、軍用地料は入っていたんですか。
 古賀 あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、古賀の友人に三井物産の砂糖部の頭をやっている人がおりました。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したんですよ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くはど早かったですよ。

 ――尖閣を処分されようと思ったのは?
 古賀 あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣りにいる頃、二度ほどお頼みに来られたんですが、古賀はそっけない返事をして「売らない」としか言わなかったそうです。そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられましてね。で、あんまり言うもんだから、南小島と北小島、あれはいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それでもよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。
 そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになるときの証文代わりに頂いておくというわけなんです。で、その二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年の八月、十月にも見えられた。そのときは主人の具合が悪かったんで、そのままだったんですが、去年の二月にもまた見えられたんです。そのとき古賀は、はっきりは言わなかったんですが、それだけおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになられないんだったら……というような意味のことを言ったんです。
 そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くなったあと四月にまた来られたんで、まあ、古賀もああ言っていたし、私もいつなんどきお参りするかわからないし、古賀の言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたんです。

 ――何に使うということはお聞きになりましたか。
 古賀 純枠の金儲けというか、人に転売するようなことは絶対にしないということでした。まあ、あの頃から石油の話はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんですから。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど…。
  あの方は山やなんかもたくさん持っておられて、由緒のある家柄の方だそうですから、何か新しい自分の好きなものを…やりたいんじゃないでしょうか。よくわかりませんけれどね。

 ――これまでをふりかえってみて、現在、沖縄をどういうふうにお感じになっていらっしゃいますか。
 古賀 第二の故郷……というより、ここが私にとっての故郷ですね。

  ――それでは、きょうは長時間、どうもありがとうございました。



 〔後記〕

 寄留商人は、沖縄社会にとってみれはいわばヨソ者である。それだけに、この人たちが沖縄社会に与えた影響は決して小さくないにもかかわらず、彼らの果した役割を具体的に明らかにするような作業はまだあまり進んではいないように思われる。まして、彼らの構成する社会の内側からこれを見るというようなものはほとんどない。
 この章は、冒頭の設問の部分でも述べたように、『新沖縄文学』の特集との関連で企画された聞き書きではあるが、古賀さんの話は、期せずして寄留商人の社会とその周辺のありようを浮かびあがらせてくれることになったと思う。
 
 
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